第四話/番外編 コロナ時代と旅
出かけるときにスマートフォンを忘れても、「ま、今日一日ぐらいは、iPhoneなしでもいいか」と思えるけど、マスクを忘れたらそうはいかない。いまじゃ、マスクなしではお店にも入れない。人とすれ違うこともできないのだ。
家を出るときにはパンツを履いていくのが当たり前、と同じことか。2020年は、「スマホよりマスク」の時代なのである。
いや、そればかりではない。「家からも出るな」という。
「触らない、会わない、近寄らない」が、いちばんだと。
僕は、僕が生きていくことには楽観的で、地球環境に関してはネガティヴな思いをもっている人間だ。
温暖化やそれによる天災で、地球上での人類の滅亡は、案外、早く来るんじゃないかな、と感じていた。それほど遠くない未来に。
魂が暗闇に落ち込む午前三時には、「人類も、あと50年ぐらいかなぁ」と思うこともあった。根拠などない。ゲスな男の妄想である。
ところが、今年になって新型コロナウイルスがやってきた。
これほど身近に疫病があらわれるとは、僕ごときの浅はかな人間には、思いもつかなかった。
世界は、とんでもないことになっている。だれもが予測していなかった世の中に。
地球上は、いまだに同時多発「鎖国」状態だ。世界がこんな状況のとき、僕はなにを書けばいいのだろう。
ニュージーランドの海岸でペンギンを眺めながら能天気に笑ってた、てな話か。
この時代に、旅のエッセイのその意味は、どこにあるのだ。
旅を続ける要因のひとつに、非日常を過ごしたいから、という思いがある。
風も吹かない毎日の暮らしに、飽き飽きしているからだ。
日常とは、「明日も明後日も、たぶんこんな感じで暮らしているんだろうな」と思える日々のことだ。明日も大きくは違わない、と思えるから安心して暮らしていける。
そんな毎日に、「もっと違う刺激が欲しい」と思うから、人は旅へ出る。
それは、「自分自身であり続けたいから」でもある。
もっと大げさにいえば、「自殺するかわりに旅へ出る」ということだ(これは、ハーマン・メルヴィル『白鯨』のなかの言葉だけど……)。
ところが、いまでは毎日が「非日常」なのである。
日本だけを見てもおどろく日々なのに、海外を見渡せば、「人類は、この先いったいどうなってしまうんだろう」という現実が、浮かび上がってくる。
そしてコロナ禍は、いまだに(というか、さらに)、各国の貧民層を襲い続ける。
感染者数の推移を聞かない日はないばかりか、死者の数が毎日報道されているのである。
死者のことを取り上げるとき、それが「数字」で示されると、僕は絶望感に襲われる。
ニュースでは、「今日の死者は、昨日より少ない○○人でした」と報道される。
数字は、死者ひとりひとりの物語を消してしまう。
個人は消され、少なくなった数字が大事なことだ、と聞こえてくるのだ。
今日も明日も明後日も、生きていることが当たり前だと思い、「死ぬことは特別」だと思っていた僕たち。しかし、いまやいつ死んでも不思議ではない時代になったのだ。
いつ死んでもおかしくない自分が、「いまを生きていることが驚き」の時代、に変わってしまった、ということか。
今年1月の「ニュージーランドさすらい旅」途中、僕は、帰ったらすぐにまたつぎの旅の計画を立てようと思った。
久しぶりの海外への旅で、眠っていたわが「蒼い衝動」が目を覚ましたのだ。すぐに2カ所の候補地も浮かんだ(スペインとアメリカ南部だ)。
今年中に、まずはどちらかへ行ってみるか、と真剣に考えていたのだ。
ところが、そんな夢想は、まさに夢想となった。世界の「鎖国」がいつ解けるかもわからない状況だ。
コロナ禍が消えるまでは、行こうと思っていたスペインの片田舎のワイン片手に、本や地図を眺めながら、夢想するしかなさそうだな。
しかし、「近寄る、会う、触る」が大好きな僕は、コロナ騒動の終わりを待てず、ちょくちょくと旅へと出ている(大きな声ではいえないけど)。
明日からは、海辺の小さな町へ出かけることにした。わが街からは、車で4~5時間ぐらいのところだ。
かように、楽観的な自分が、またまた顔を出す。
「自粛警察」や「他県ナンバー狩り」など、ぶっそうな言葉が飛び交っている世の中であるが、荷物は、すでに黄色いカングーに積み込んだ。車中泊装備も抜かりなし。
「でもな」と、ワインを飲み過ぎた頭は、ネガティヴへ進んでいく。
歴史が語っているとおり、「大きな災難が終息しかけると、戦争がはじまる」という事態に世界は進んでいくのだろうか、と。